「武士の都」鎌倉の成立

1.平安時代後期の鎌倉

10世紀ごろまでに古代の法律(「律令」)体制がくずれる

 ⇒ 代わって京都からやってきた桓武天皇の子孫たち(桓武平氏)が北関東各国の軍事部門に食い込む

 ⇒ その一部の武士たちが相模国村岡郷(鎌倉市と藤沢市の境、現在の鎌倉市玉縄~藤沢市村岡付近)に移住
   鎌倉氏(鎌倉・藤沢を拠点に活動した武士団)・三浦氏(三浦半島の強力な武士団)・千葉氏(千葉県の強力な武士団)の誕生

 ⇒ 11 世紀前半、房総半島(千葉県)の戦乱(平忠常の乱)を鎮めるために源頼信・源頼義親子が京都から来る
  → このとき鎌倉を軍隊の基地にする
  → 忠常の乱や東北地方での合戦で手柄を立て、鎌倉を自分の土地にする
  → 5代のちの子孫が源頼朝

 ⇒ 北の山際を通る東西の道―六浦(横浜市金沢区)から来て北鎌倉に抜ける中間の現在の寿福寺の場所に源義朝(頼朝の父)の館があった

 ⇒ 南の海岸側を通る東西道―古代の 7~8 世紀に最初の東海道が鎌倉を通っていた

 ⇒ 以上2本の東西道があり、さらにそれをつなぐ南北の2本の道があった

鶴岡八幡宮と若宮大路のない鎌倉を想像してみよう

3.鎌倉時代の鎌倉

頼朝、治承四年(1180)伊豆から鎌倉に入る→すぐに鶴岡八幡宮を今の場所に移し、若宮大路を作る

風水思想(古代中国のまじない思想)による空間構成

  海または大きな池に向かって開けた土地で、山を背にして左手奥から水が流れ、中央に土地の核 →京都などと共通
  鎌倉の場合は、鶴岡八幡宮(街の核)を背にして、左後ろから滑川が流れてきて、前方の鎌倉湾に流れ込む

4.鎌倉の繁栄

 ⇒ 次第に人が増え

建保三年(1215)七月十五日、商人の数を規制する法令

 → 武士の館の集まりから庶民の集まる「町」へ
 → 早くも豊かな消費生活(中国産磁器の食器の大量出土)

 ⇒ 嘉禄元年(1225)幕府移転
  大倉幕府(鶴岡八幡宮東側の横浜国大付属小学校校庭から清泉小学校あたりにかけて)から宇津宮辻子幕府(現在のニノ鳥居交差点東方)へ

 ⇒ 町並の中心が若宮大路の周辺に移る

5.鎌倉で出土する遺物はどこからくる?

  • 国産の焼物:愛知県常滑市・同瀬戸市・同瀬戸市・静岡県湖西市・岡山県のすり鉢・壺)・静岡県の鉢・碗・岐阜県東南部の椀・兵庫県東部の鉢・甕
  • 土器皿:瀬戸内(岡山県・広島県)・三重県
  • 中国(日本の鎌倉時代に当たる 13 世紀~14 世紀前半は「宋」から「元」と呼ばれる王朝)で作られた「磁器」(青や白の 釉 薬 のかかった硬い焼物)
  • 土鍋:三重県伊勢地方(火鉢も)・鎌倉近辺
  • 石鍋:長崎県西彼杵郡
  • 砥石:熊本県・愛媛県・京都府・群馬県
  • 漆器の装飾品の材料としての貝:鹿児島県南部から沖縄県にかけての海で採れる「夜光貝」(サザエに似た大型の巻貝)
  • かわらけ(素焼きの土器皿):鎌倉近辺

6.中世食生活の特徴

調理法の多様化 → 煮る・揚げる・する・おろす・つぶす・漉す・潰げる

食材の多様化 → 穀物(米や豆)・野菜

調味料の多様化 → みそ・しょうゆ

嗜好品・飲み物の出現  → 茶

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