鎌倉時代後期の貴重な遺構発見のご報告 - 若宮大路周辺遺跡群 現地説明会開催


鎌倉市雪ノ下(鎌倉市川喜多映画館記念館南側)の発掘現場において、一般社団法人鎌倉・中世文化研究センターが鎌倉時代後期の重要な遺構を発見しました。
発見内容
- 鎌倉時代後期の道路
- 石敷き遺構
- 井戸跡
特に石敷き遺構については、所長の馬渕が「これだけの石敷きが鎌倉で発見されたのは初めてではないか」と評価するほどの貴重な発見となりました。
現地説明会


- 多くの方々にご参加いただきました
- 朝日新聞にも取材いただきました
お礼
発掘のご依頼をいただき、このような貴重な発見につながったことを深く感謝いたします。当センターでは、発掘を単なる工事前の手続きではなく、土地の歴史的価値を高める重要な機会と捉え、依頼者様に満足いただける調査を心がけております。
当機構にご依頼くださったことに、心から感謝いたします。
今回の発掘について
この発掘は集合住宅建設にともなう事前調査として、一般社団法人 鎌倉・中世文化研究センター(所長 馬淵和雄)がおこなっています。
調査期間 2024年12月16日~ 2025年6月15日(予定)
調査面積 338㎡(残土置き場の確保のため、調査区を2分割し、現在前半部分の調査中)
調査担当者 赤堀祐子(現地説明担当者:馬淵)
現在見えている遺構:鎌倉時代後期の東西道路とそれに直交する南北道路、もしくは寺院(松源寺廃寺)関連の石敷き
この場所の歴史的環境

概略
平安時代後期に始まる「窟屋小路(いわやこうじ)」に接し、鎌倉時代初期からの地蔵堂、およびそれに続く松源寺(廃寺)の正面に位置する。
北側の道路とその由来
現在「窟屋小路」と呼ばれているこの道は、古く平安時代後期の11世紀前半に開かれたと推測され、西の突き当りにある現在の寿福寺の場所から、朝比奈峠を越えて東京湾側の六浦港(「六浦津(むつらのつ)」)にいたる幹線道路の一部でした。1世紀半後の治承四年(1180)、源頼朝が鶴岡八幡宮を現在の地に置いたことでこの道は寸断され、今では実感が湧きにくくなっていますが、本来はつながった1本の道だったのです。
鎌倉時代以降は、この道のうち、八幡宮社頭の赤橋から西側が武蔵国府に出る道として「武蔵大路」と呼ばれた可能性があります(高柳光寿『鎌倉市史 総説編』)。
東側が「六浦道」と呼ばれるようになりました。八幡宮東側のこの道が再び現れる地点(「国大前」バス停付近)に「筋違橋(すじかいばし)」の名があるのは、寸断されて曲折を余儀なくされたためと推測されます。
この道が敷かれたのは、平安時代中期の長元元年(1028)に起きた房総の大乱「平忠常(たいらのただつね)の乱」がきっかけとなったと考えられます。乱を鎮めるために平安京から派遣された軍隊の基地が置かれたのが鎌倉でした。この時六浦津が新たに整備されるとともに朝比奈峠が開削され、鎌倉との往還道が開かれました。そして最初の指揮官である平直方(たいらのなおかた)の館(たち)の場所が、のちの寿福寺の地である可能性があります。
というのは、補給線としての六浦道を見たとき、指揮官の拠点に最もふさわしいのがその起点、もしくは終点に位置する寿福寺の場所だからです。
源氏の館と窟屋小路
寿福寺の場所が、平安時代末期に頼朝の父義朝の館(「鎌倉の楯(館)」)であったことは知られていますが、実はもっと古くから源氏の館だった可能性があります。義朝は自分の館を、先祖から受け継いだもの、と言っており(『天養記』)、とすればそれは、鎌倉源氏の二代目頼義のことかもしれないのです。直方に続いて派遣された河内源氏始祖頼信の長子頼義は、直方から才能を見込まれて娘婿に迎えられ、長男の八幡太郎義家が生まれたとき鎌倉の所領を譲られます(『詞林采葉抄』)。このときに館も受け継いだ可能性があり、それが代々源氏に伝わ言ったとみるべきです。
「武蔵大路」について
鶴岡八幡宮前から西に行く調査地点北側の道は、寿福寺門前で南から来た古道(現在の「今小路」)に接続します。この道は奈良時代からある古代東海道の支線(伝路)で、今の御成小学校校庭にあった相模国鎌倉郡の役所(「郡家」ぐうけ)から北上し、海老名の相模国分寺に通じています。郡家から葛原岡を経て北鎌倉に出て、さらに藤沢市大道、立石(「大道」・「立石」とも古代幹線道の名残を伝える地名)を経由して東海道に接続し、当時武蔵国の中心であった武蔵国府(東京都府中市)に向かう官道です。このうち、窟屋小路から北鎌倉までがのちの鎌倉幕府の正史『吾妻鏡』などで「武蔵大路」と呼ばれていたと推測されますが、それにはこのような理由がありました。
調査地点北側の道は平安時代後期から現代まで続いているのです。
地蔵堂と松源寺
調査地点の北側にある「川喜多映画記念館」と和辻哲郎旧宅のある場所には、頼朝が勧請したという地蔵堂がありました。地蔵堂は真言宗、開山貞節、松源寺の前身です。本尊の地蔵菩薩は運慶作といいます(『新編鎌倉志』)。この地蔵菩薩は一時長谷寺にありましたが、のち横須賀市武の東漸寺に移されました。松源寺は真言宗で、鶴岡八幡宮内の神仏集合による仏寺でした(『新編相模国風土記稿』)。『吾妻鏡』弘長三年年(1263)4月7日の記事に、「窟堂の辺で騒動があり、群盗10余人が地蔵堂に隠れていたのを生け捕った」とあり、地蔵堂が少なくともこの年までは存続しているのがわかりますが、いつ松源寺となったかは明らかではありません。

これまでに発見されている遺構と遺物
石敷き遺構
調査区の北側半分は、人頭大の鎌倉石(凝灰質砂岩)を敷き詰め、南側よりかまぼこ状に少し高くなっています。東西方向の道路とみられ、そうだとすればこれまで鎌倉市内の発掘調査で発見された道路遺構の中で、最も堅固なもののひとつです。年代は鎌倉時代後期ごろとみられます。南のヘリには側溝が備わっているのが、調査区東西両端に入れた深掘り坑の中で確認されています(上面を覆う生活面の確認のため未掘)。
なおこの石敷きは地蔵堂、あるいは松源寺に関連するものである可能性もあります。
南北道路
上述の道路と思しい石敷きの南側を破砕泥岩で覆い、そこから丁字形に南に延びる道が造られています。主軸方位は窟屋小路に直交しており、これはこの近辺でおこなわれた過去の調査でも共通しています。すなわち、この一帯の街区は窟屋小路を基軸としているのです。
両横に側溝を持つもので、西側の溝は木枠を備えています。道路幅4.7m、西側溝の木組みの間隔(溝幅)は56 cm。木枠は上下2段の角材を東柱(つかばしら)で支え、その外側に厚手の板を横方向に並べて側板とするものです。この構造は若宮大路などのそれに共通し、溝の作事が公共事業として行われたことが示唆されます。
出土遺物
- 大小のかわらけ皿(素焼きの土器食器)
- 国産陶磁器(瀬戸・常滑・渥美ほか)
- 中国産陶磁器(青磁や白磁)
- 瓦
- 木製品(杓文字など)
- 石製品(硯や塔婆)
