考古学と発掘調査についてのQ/A

答える人 所長・馬淵和雄
これはある学校で馬淵が中学生から受けた質問に答えたものです
I.発掘調査に関すること
1.発掘調査をするきっかけ。研究者が発掘場所を決める根拠は何か。
日本国内でおこなわれる発掘調査には大きく二種類あります。一つは建物が立ったり道路を作ったりする開発事業があるとき、その前におこなわれる事前調査です。これを「行政調査」とか「緊急調査」といいます。各市町村には「遺跡台帳」と「遺跡地図」があり、どこにどういう遺跡があるか、だいたい把握されています(これを「遺跡包蔵地」といいます)。そこに登録されている場所が開発されると地下の遺跡が壊されるので、その前に発掘調査をしてそれがどういうものであったか調べるのです。実は国内でおこなわれる発掘の 99%以上がこれであり、地方自治体の外郭組織(たとえば「埋蔵文化財センター」など)や民間調査組織が中心となっておこないます。開発される場所を調査するので、調査者が自分で選ぶことはできません。なお遺跡地図や台帳に記載されていない場所で工事中に遺跡が発見された場合は、「不時発見の遺跡」としていったん工事を差し止め、発掘調査をおこなったり立ち会い調査をしたり、といった対応を取ります。
もう一つは「学術調査」といい、研究者が自分の研究のために場所を選んでおこなったり、市町村が保存公開される遺跡の整備のためにおこなったりするものです。私(所長馬淵)もかつて沖縄県の宮古島で5年間にわたって学術調査をしたことがあります。このときは過去に近辺でおこなわれた調査の成果などに基づき、掘れば大きな成果が得られるだろうと予測して場所を選びました。
2.遺跡のおおよその場所は古文書などでわかると思うが、正確な場所はどうやって決めるのか?
遺跡範囲を正確に知ることは、地表面からはむつかしいです。中世以降はときに古絵図が残っていたりして、現在の地形と照らし合わせることができるし、屋敷跡なら外周に溝が残っていたりして範囲がわかることがあります。また山城などは地形からもつかみやすいです。しかし、それ以前だとなかなか手がかりがありません。そもそも遺跡に明確な境界を設定することに無理があります。
3.発掘調査はどのように始まり、どのように進むのか?またどうなれば終了なのか?
発掘調査に入るまで:
緊急調査の場合
建物や道路など工事計画が起きたら計画の概要を市町村の役所に届出
→遺跡のある場所かどうか文化財課(「文化財保護課」「文化遺産課」など自治体によって呼び名はさまざま)で「遺跡台帳」を照合、遺跡のある場所なら試掘(※1)
→工事が遺跡に影響をおよぼすようなら発掘へ
※1:どれくらいの深さから遺跡があり、どこまであるのか、遺構や遺物が多いか 少ないか、など試掘により必要な調査体制や期間・経費などを推測。
学術調査の場合
土地所有者の許可を得た上で、遺跡所在地の市町村の文化財課に届出
→調査者の資格が審査され、適格と判断されれば調査可能発掘調査の手順:表土(近代・現代の地層)の剥ぎ取り
→上層から、近世・中世・古代・先史時代の順に当時の人の生活した地層面を詳しく調査し、掘り下げていく(※2)
→遺跡のない最下層(「地山」)まで到達して現地での作業は終了
→遺物・測量図面・写真等の発掘資料を整理事務所に持ち帰り、調査報告書作成作業(※3)に入る
→報告書を印刷・刊行→発掘資料を市町村の文化財課に移管(これで発掘調査全体が完了)
→貴重なものは展示・公開へ
※2:「発掘調査」の実際の作業とは、たとえば竪穴住居や柱穴などの遺構を検出し、掘り上げて実測し、写真を撮ることなど。近世に始まり、中世→古代→弥生時代といったふうに時代ごとに掘り進めていくが、ある時代しかなかったり、全部の時代があったり、遺構の残っている時代はさまざま。また鎌倉や京都・博多などの都市遺跡では、都市が存続した時代の中で、為政者の変わる数十年単位で生活面が何枚もあることは珍しくない。したがって面あるいは層ごとに「検出→掘り上げ→実測と写真撮影」の繰り返しとなる
※3:報告書作成にはさまざまな作業があり、時間がかかる。たとえば現地で取った遺構図面や写真を印刷可能な形にする、たとえば遺物を水洗いして破片の1点1点に出土層位・出土遺構を小さく書き込み(「注記」)、接合したのち実測図を作成し写真を撮る、遺構や遺物の一覧表を作る、など。もっとも重要なのが原稿執筆で、その遺跡の歴史的環境に始まり、調査にいたる経緯、遺構・遺物一つ一つの説明、および、最後の「まとめ」ではその遺跡の詳細な年代を決め(例えば「弥生時代中期後半」とか、「12世紀第4四半期から13世紀第2四半期まで」とか)、遺跡の意義を考察する。
4.発掘調査をしてみたら、何も出てこなかったこともあるのですか。
めったにありません。「遺跡」は各市町村の「遺跡台帳」に登録されており、それはその土地を歩くと遺物が採集されたりしたことから、そこが「遺跡」となっています。遺物が地表面で採集される場所にはほとんどの場合、その下に遺跡があります。鎌倉などでは、現状でわかっている昔の施設(「若宮大路」や「大倉幕府」)などがそのまま遺跡名になったりします。鎌倉旧市内は、掘ればまず何らかの遺構が出てきます。ただし、遺構密度の濃い・薄いはもちろんあります。
5.発掘調査にはどれくらいの期間がかかるのですか。
よく聞かれることですが、千差万別としかいえません。調査面積と遺構の深さ、遺構・遺物の量などさまざまな要素によってまったく異なるからです。1週間で終わるものもあれば、高速道路建設の事前調査のように広大な面積の調査では1年以上かかることもあります。また掘り下げるうち、たとえば最初に近世の遺構のある層があり、次に中世があり、その下には古代があって、さらに弥生も縄文もある、おまけに旧石器もありそうだ、などということになると、面(生活痕跡のある地層)の数だけ倍増していきます。すなわち、かりに調査面積が100 ㎡であっても5つの時代があれば実質500 ㎡になってしまうのです。ただ、事前の試掘調査で地下の大体の状況は把握できるので、それによって期間や経費が決まります。
6.原因者負担というけれど、いったいどれくらいの費用がかかるのか
これもよく聞かれる質問ですが、調査面積や深さ、時代別の層の多さ、また遺構密度と遺物量によって千差万別なので、わからないとしか言えません。調査期間も広さや面数によって10日で済むところもあれば、数年かかることもあります。試掘をしてみて、その結果により経費と期間を推測する。調査費用には報告書作成と刊行費まで含まれています。
7.緊急発掘調査したとき、歴史的に重要なものが出てきたら調査は継続するのか
これも場合によるとしか言えません。遺物1点程度なら相当貴重なものでも(これも程度による)そのまま調査を続けることが多いですが、きわめて重要な遺構が出てきた場合には、いったん調査を中断して、移設も含め、どう保存するか協議することもあります。
8.発掘調査にはどんな道具を使うのですか。
下の写真のようにいろいろあります。これはその一部です。

かながわ考古学財団 2017.6.3.生涯八幡前遺跡見学会配布資料より
9.発掘調査はどのように進むのか。その手順は?
- 表土を剥ぎ取る(これは重機でやることが多い)
- 遺跡のある層までスコップなどを使ってさらに下げる
- 昔の地表面を出す
でいねいに地面を削ってそこに掘られていた穴(壁穴住居や柱を立てた穴)を探す - 穴を掘り出す
- 遺物の出土状態なども含め図面と写真を撮る
- その面の遺構(人間が作った構造物)をすべて掘り上げたら全体の写真を撮る
- 次の時代の層まで下げる。以下遺構のない地層まで繰り返し(現地調査の終了)
- 出土した資料を持ち帰り調査報告書出版作業をおこない、出版後すべての資料を地方公共団体に移管して終了
II. 遺跡・遺物に関すること
1.昔の人が意図的に後世に伝えようとして遺物になったものはありますか(私たちがタイムカプセルを埋めるみたいに)。
現代人のタイムカプセルのような意図で埋めたものは、私には思い浮かびません。ただ、神に捧げるために、自分の愛用した道具や鏡を入れた壺を埋めたりすることはよくあります(これを「埋納」といいます)。古墳のように、自分のために立派な墓を造ったりするのは、後世に長く自分の功績を伝えるためにするものですね。また墓石を立て、それに名前を刻んだりするのは、遺族などが故人をしのんだり、思い出をずっと後世に伝えるためのものです。これらは、自分たちの時代のことを未来の人に知ってもらうという意味で、タイムカプセルと言っていいかも知れません。いや、地中に埋められた遺跡そのものが、意図しないタイムカプセルと言えるでしょう。
2.日本で一番初めに発見された遺跡や遺物は何ですか。
「一番初めに発見された」という遺跡や遺物は知ることができません。とはいえ、古代・中世の人たちも、土を掘ったときに何か細かく割った石や、変わった文様のある土器のかけらなどが出てくれば、自分たちよりもはるかに昔の人が作ったものだ、という認識はあったはずです。古墳の場合は、境丘(盛り土)が地表に盛り上がって見えていることも多いので、早くから「大昔の身分の高い人の墓(「塚」)」と認識されていたようです。
鎌倉時代には古墳の石室に侵入して副葬品を盗み出したり(これを「盗掘」といいます)、「かわらけ」(中世~近世の土器の小皿)などを配って地域の聖地にしようとする動きがしばしばありました。大きな古墳の上にはよく神社などが立っていますが、それも同じような意味です。こういうことはもちろん「古墳は昔の人の作ったもの」という認識がないと起きません。
江戸時代後期の歴史家、蒲生君平(かもうくんぺい、1768-1813)に古墳のことを書いた『山陵志』という本があります。また君平より少し前の木内石亭(きのうちせきてい、1725-1808)という好事家(こうずか、趣味人あるいは物好きな人)の著作『雲根志(うんこんし)』は、いろいろな石について書いた本ですが、その中に縄文時代の石器が「神代の遺具」などとして取り上げられています。
3.緊急調査は発掘後に遺跡が壊されるため、「できるだけ元の形に近いものにしてから国民に示す」といいますが、どれくらい正確に復元できるのか?
発掘された後で壊された遺跡は、図面・写真や文章でどんなに一生懸命「あれはこうだった」と発掘調査報告書で説明しても、決して復元しきれるものではありません。いったん消滅した遺跡がよみがえることはないのです。だからこそ、遺跡を保存し、展示公開することが大切です。
質問が「土器の復元はどこまで可能か?」という意味ならば、たいていは足りない部分がいくつもあって、形の上で全体を復元できることはあまりありません(ただし全体の4分の1ほどあれば、図面上でなら直径を復元できます)。小さなかけらでも、それが何を示しているか、だれがどのように使ったものかを考えることが大事です。
4.遺物の復元作業の専門の仕事があるのか?
遺物復元作業は基本的に発掘資料の整理作業の中のほんの一部分であり、それだけを専門にしている人は本来いません。ただし、だんだん熟練してきてほかの人よりうまくなれば、そればかり頼まれる人も出てきます。
5.何年も考古学に携わっていると、発掘された遺物をパッと見て、「あ、何時代のものだな」とわかるものなのか?
わかります。といいますか、それが一人前の専門家の仕事です。私は中世の日本および宋・元の時代の中国のやきものを専門の一つにしていますが、小さなかけらを見れば即座に、たとえば「13世紀第2四半期(1226年~1250年)ごろ中国のどこそこの窯で焼かれたやきものだ」などと判断できます(つもり、笑)。石器の専門家は、旧石器時代のものか縄文時代のものか、縄文時代とすれば早期なのか前期なのか、どの地方の石材を使っているか、などがひと目でわかります。江戸時代の伊万里焼の専門家は、20年ぐらいの単位で生産年代を言うことができ、さらには有田町(伊万里焼の中心的な産地、佐賀県)の中でもどの窯で焼かれたものかが瞬時にわかります。
6.日本ではどういうところに遺跡や遺物が多く出土するのか?
難しい質問です。時代によって違うのです。たとえば縄文時代なら関東や中部地方は縄文中期の遺跡の宝庫ですが、後期以降は次第に少なくなっていきます。晩期は東北に多いようです。弥生時代は、前期の遺跡は九州から西日本に多く、その一方で関東以北には前期の遺跡はなく、中期以降にしかありません。これは弥生文化が大陸からまず九州に入り、次第に東に伝わっていったからです。稲作を特徴とする弥生文化は北海道には行っていません。北海道は寒く、当時の技術では稲が育たなかったからです(したがって本州の弥生時代と同時代の北海道は弥生ではなく、「続(ぞく)縄文文化」という呼び方をしています)。古墳はヤマト(大和、現在の奈良県)から遠くに行くほどまばらになり、とくに前方後円墳は岩手県一関市が北限です(角塚古墳)。奈良時代の遺跡は日本中にありますが、各地の役所やその周辺に多いことは否定できません。中世では、鎌倉時代の遺跡はたいての地方都市の地下にあり、これはそれらの都市が鎌倉時代からすでに始まっていることを示しています。鎌倉時代後期になると鎌倉市内の遺跡が質量ともに日本でも群を抜いています。
質問が「どういう地形に多いのか」という意味ならば、千差万別としか言えません。山の上に営まれる遺跡もあれば(弥生時代の「高地性集落」や中世の山城など)、中世では広島県福山市の「草戸千軒町遺跡」のように川の中州にできた遺跡もあれば、河口に集落ができることもあります(たとえば福岡市の博多遺跡群や鹿児島県の万之瀬川(まのせがわ)河口一帯など)。古墳も、古墳時代前期では山上に作られることが多いのですが、後期になると平野部や河川敷といった低地に群集するようになります。江戸時代の町場は東京や大阪など現代の大都市に多いほか、小田原のような、城下町から発展してきた地方都市にもたいていあります。
7.掘って出てきたものを遺跡とか遺物とか、誰が判断するのか?
まずは調査担当者が判断します。彼らは大学や大学院などで専門的訓練を受けた人たちです。
8.出土した遺物がどこからきたのか、いつの時代のものかなどについてどのように調べるのですか?
自分の専門とする時代の遺物ならばすぐにわかりますが、専門外のものが出た場合にはその時代の専門家に聞くことが多いです。また土器などは、それを形づくっている粘土(「胎土」という)を分析することによって産地がわかることがあります。たとえば鎌倉出土の鎌倉時代のかわらけ(土器の小皿)には、南関東一帯の土に多い「海緑石針」(海底の堆積土中に含まれる長さ1mm 前後の海綿の骨)という成分が含まれているので、鎌倉近郊で作られた可能性が高いことがわかります。遺物年代については、考古学だけでなくさまざまな理化学的分析の助けを借りることもあります。
9.遺跡や遺物の具体的な保存方法を知りたい。
木製品は水に浸けておけば劣化することはそれほどありませんが、展示公開などするものはポリエチレングリコール(PEG)という液体を染み込ませて(「含浸」)、木材の中に入っている塩分をその他の有機成分と入れ替えます(「置換」)。鉄製品はできるだけサビを落とし、中の塩分を抜いて乾燥させます。陶磁器や石器は腐ることがありませんから、そのままで大丈夫。土器もたいていはそのままですが、縄文早期のものなど脆そうなものは、バインダーという固着液を塗ったりします。ただ木製品も鉄製品も、現在の保存科学では長い年月が経つとかなり傷(いた)んでくるのをまぬがれません。
10.化石の発掘も考古学に入るのですか。
入りません。考古学は人間の活動した痕跡を研究する学問です。化石の発掘は理科系の学問で、「古生物学」といいます。考古学は歴史学の一つの方法としてモノ(物質資料)から昔のことを探る学問であり、基本的に文科系です(ただし理化学的な分析を補助的に使うことはよくあります)。
11.日本の遺跡の考古学的特徴は何か?
西洋や中国の遺跡と比較して簡単にいうならば、日本の遺跡は竪穴住居(地面を丸や四角の形に掘りくぼめた住居)や掘立柱建物(ほったてばしらたてもの、地面に穴を掘って柱を立て、屋根を支える建物)など、当時の地面に掘り込まれたものが多いということでしょうか。西洋などでは石で作られた遺跡が多く、発掘の方法が違います。すなわち、日本の場合は昔の地表面を出し、そこに掘られた穴やくぼみを探します。昔の穴はもちろん埋まっていますから、具体的方法としては、当時の地表面を丁寧に削って土の違っているところを探します。一度掘られたところは、周囲と土が違うのです。その違う土を取り除けば、昔の柱の穴や竪穴住居の形になります、、、と簡単に書きましたが、この「土の見分け方」が大変に難しく、発掘で最も苦労するところです。石でできた遺構の場合は、検出そのものは容易です。
遺物でいえば、弥生時代以来木製品が多いのも特徴かもしれません。日本では低湿地に遺跡があることが多く、地下水が豊富なため木製品がよく残ります。
12.何年くらい前のものが遺跡と呼ばれるのか?
「遺跡」とは人間が当時の自然環境に何らかの影響を与えた、その痕跡です。したがって人類の誕生(200万年ぐらい前)から「遺跡」は始まり、近・現代のものでも地中にあればれっきとした「遺跡」です。現在の文化財行政上では、明治時代以降は「遺跡」とされていませんが、その地域に決定的な影響を与えた歴史的事態の痕跡と判断されれば調査されます。最近では20世紀第2四半期のアジア・太平洋戦争の跡を、「戦争遺跡」と呼んで発掘調査することも珍しくなくなりました。恐竜の時代は人間がいないので含まれません(古生物学)。
13.発掘調査が尽くされることはあるのか?
建物や道路が日本中に隙間なくできることはなく、また人のあまり入らない山の中に遺跡があることは珍しくないので、掘りつくすことはまずないでしょう。
14.海中遺跡の発掘はどうやっておこなうのか?
海に潜って海底の出土遺物の図面を取ったり写真を撮ったりするダイバーと、船上や浮く陸上で支援する人に分かれます。海が浅いと遺物の上に測量のポールを立てて水面上に突き出し、それを陸上から光学測量機器で読み取るという図面作成の方法も可能です。ただ写真だけは実際に海に潜らないと撮れません。
15.考古学者は発掘調査以外にどのような仕事をしているのか?
職業考古学者には、各地の埋蔵文化財調査法人職員・博物館学芸員・地方自治体職員・民間調査組織社員・教員などがあり、このうち常時発掘調査をやっているのは、各地にある埋蔵文化財調査法人と民間調査組織です。そこの職員は、発掘をやってはその調査報告書を出すために原稿を書いたり、遺物実測をしたりしています。地方自治体職員は遺跡の状況を把握するための試掘調査を担当することが多く、史跡整備のための調査以外はあまりやりません。博物館と大学はあまり発掘をすることがありませんが、前者には歴史遺産を市民に公開する、後者には将来の職業考古学者に基礎を身に着けさせる、という重大な任務があります。大学や大学院で考古学を専攻し、教員資格も併せて取っている人が県教育委員会などに就職すると、文化財行政の傍ら社会科の教員として学校現場に出ることがあり、そこで高校生などに考古学を教えることも普及活動として重要な仕事です。
III. 学際研究その他
1.遺跡から人々の暮らしをどのように想定するのか?
皆さんの机の上には、授業中であれば教科書や筆記用具が並びますが、昼休みになればそれらは片づけられ、代わって昼食が載(の)ります。ゴミはゴミ箱に捨てて処分されます。昔も今も、人は自分に必要なものを身近なところに置き、不要なものや見たくないものは、触れたくないものは遠ざけます。上記のかわらけのように、まとまってたくさん出れば宴会をやった痕跡とわかります。石器に使う石材の小さなかけらがいっぱい出れば、そこで石器が作られた可能性が高いと判断します。都市の遺跡で溝が縦横に走っていれば、排水や土地所有のありかたがわかります。つまり、どういう場所からどんなものが出るか、どのように出るか、それが一番の手がかりなのです。ものの出土のありかた(「出土状況」)は嘘をつきません。それこそが「事実」です。ただその解釈が人によって違います。それが研究上の論争を呼ぶのです。
2.遺跡や遺物の他に昔のことを伝えてくれるものはあるか?
文字で書かれたもの(文献)・絵巻などの絵画資料・昔の建物・仏像・祭りや葬式などの儀礼、その他いっぱいあります。古いものや古くから伝わってきた習俗は情報の宝庫です。また一般的に言語は、中央(奈良や京都)から遠い地方ほど古い言葉が残っている傾向が強いとされます。水面に石を落としたときのように、真ん中から拡がっていくのです(方言周圏論)。たとえば沖縄地方の方言には、奈良時代の近畿地方で使われていた言葉や発音が残っているといいます。
少し難しい話をしましょう。世界のすべての存在は、必ず今よりも以前に起源があります。私たちがいま見ているありとあらゆるものはその最終的な姿です。そして同時にこの先の未来への姿を変えていく起点でもあります。すなわち私たちは今現在のすべてのものについて、その歴史の途中の形に接しているのです。
3.昔の人々の食生活は遺物からどのように判明するのか?
たとえば、鎌倉時代はやきものの産業が大きく発展する時代です。壺や鉢、これ鉢(すり目のないすり鉢)などが各地で作られ、人々の間に豊かに普及しました。壺や鉢があれば液体を溜めることができます。すると醤(ひしお、味噌・醤油や東南アジアのナンプラーやニョクマムなども)や酒といった発酵食品がつくれます。これ鉢が出土すれば魚や穀物をすりおろした調理法があったことがわかります。また鎌倉時代は鉄や石の加工技術が発展し、土器とあわせて鍋や釜が大量に作られました。これによって「煮る」という調理法が盛んになったことがうかがえます。また日本では鎌倉時代後期に石臼が作られるようになり、穀物を粉末にできるようになりました。これによってうどんなどの麺類や団子ができました(粉食の成立)。
古い時代の話ですが、容器の出現は人類の生活を根底から変える大変な事件でした。容器のない生活を想像してみてください。容器があってはじめて私たちはお湯を手に入れることができ、また煮たきができるのです。日本列島では約1万6千年前に縄文土器が作られ始め、これによって私たちの先祖ははじめて容器を持つことができました。それまでは、おそらく今の琉球列島辺りに住んでいた人たちならば大きなシャコ貝を容器にしていた可能性がありますが、それ以外の地方の住民はお湯を沸かす方法を持っていなかったはずです。せいぜい夏の陽だまりでぬるく暖められた水ぐらいでしょう。土器の器の出現が、生活にどれほど大きな変化をもたらしたか、想像してみましょう。
4.中国に日本に関する文献資料がない「空白の4世紀」について、考古学からわかることはあるか?
考古資料はいっぱいあります。4世紀には古墳が列島各地でつくられ、また竪穴住居の集落もいたるところで見つかっています。また大陸からかまどが伝わってくるのが4世紀の終わりか5世紀のはじめであり、それ以前の日本列島では、竪穴住居の床で火を燃やす「地床炉(じしょうろ)」が一般的でした。4世紀代には土器の表面に文字のようなものが書かれたのも見つかっています。これより前、3世紀前半の邪馬台の時代には中国に使者が派遣されていますが、中国の皇帝に会うには正式の外交文書が必要なので、この時までに文字の使用は始まっていたはずです。したがって、4世紀ならもっと文字の使用が広まっていたと考えられます。
5.昔の人はゴミをどのように処理していたのか?また、江戸時代みたいに再利用などのシステムはあったのか?
ゴミは埋められるか、または溝に捨てられました。道端に捨てられることも多かったようです。溝はだんだん大きくなって川に入り、最後は海に流れ込んで「海の藻屑」となって雲散霧消します。このときゴミは「海彼岸」(海上他界)に到達して浄化されたのです。「ゴミを捨てる」という行為とは何でしょうか。ゴミとは「不要になったもの」、すなわち自分の所有の範囲からはじき出したものです。多くの場合、その処理は燃やすか土に埋めるかのどっちかです。すると、何が気づきませんか?これは死者を弔る行為と同じですね。ゴミを捨てるのは他界に送るということなのです。逆の言い方をすれば、ゴミが集められたところは他界への入り口ともいえるのです。この意識は前近代の人も、いや人類に共通するものです。
再利用についてですが、かつて近世の江戸では、町なかで出た糞尿を郊外の農村に運び、農作物と交換する交易システムが盛んにおこなわれていました。これは鎌倉時代後期に始まった可能性があります。平安時代後期には、畑地が開発されて野菜の生産が増大し、人糞を肥料として使うことが始まっていました。京都とその近郊農村では近世の江戸のような関係が始まっていたかも知れません。こうやって昔の人たちは資源として再利用していたのです。
6.旧石器時代や弥生時代など、「時代」はどのように分けるのか?また、「時代」を分ける遺物にはどのようなものがあるか?
旧石器時代とひと言で言っても、100万年も続く長~い前期旧石器時代とそのあと50数万年の中期旧石器時代、そして最後数万年の後期旧石器時代があります。前期は原人の時代で、遺具はただ叩くだけの石です。中期になると遺具として目的に即した形にした石器になります。これは「旧人」(ネアンデルタール人)の時代で、彼らの脳が原人よりもはるかに進化したことを示しています。後期旧石器時代は私たちと同じ人類、すなわち「新人」の時代です。この時代の石器はたとえば槍先、鋸(やじり)・ナイフなど、鋭く尖った刃先を作る技術を獲得しています。これは必要な道具の形を想像することのできる「新人」の脳とそれを実現できる手の形が、石材をミリ単位で細かく削離させることを可能にしたからです(「押圧剥離」の成立)。
長い長い旧石器時代の後、新石器時代となります。石の斧(おの)の刃先を磨く技術が出てきます(磨製石斧)。日本列島では縄文時代です。この時代がそれ以前と厳然と区別されるのは、何といっても土器という容器が発明されたことです。これでようやく私たちの先祖はお湯を手に入れられるようになり、また煮炊きができるようになったのです。それまで自然の素材を利用しただけだったのを、土を焼いて硬く変化させ、水をためることを覚えたのです。縄文時代の中期ごろまでには季節ごとに食材を求めて移動するとともに、栗の木などを植えて管理するため数家族単位で一定期間定住する生活が始まっていたようです。
縄文時代の終わりごろ大陸から稲作農耕が伝わり、それまでとは決定的に異なる生活様式が始まります。稲作をするには定住しないといけないからです。これが弥生時代と呼ばれる時代の始まりです。農耕をすると土地をめぐる争いが起き、さらには集団を統治する首長が現れます。弥生時代にはそれまでの縄文にはなかった、首の細い壺が出てきます。また甕の底部に円筒形の台を付け、炎を高い位置で受けて熱効率を向上させた土器が出現します(台付き甕)。
古墳時代になると、大陸からかまどが導入されるのが大事件です。そしてそれにともない、かまどに据す容器である長胴甕が出てきます(釜の出現)。また朝鮮半島から硬い「須恵器(すえき)」という焼物技術が伝えられます。このころから土器は「土師器(はじき)」となり、平安時代中期の10世紀の終わりか11世紀の初めには「かわらけ」と呼ばれる土器皿が出現し、新たな食器様式が始まります。これが中世の始まりです。
道具とは人間が自然を制御し、自分たちが扱いやすいように改造するためのものです。土をこねて水や物を溜める器を作る。泳いでいる魚を採り(釣道具やモリなど)、刺して食べる(刃物)。遠い場所に早く楽に着く(馬車・自転車・車・飛行機)。木を切り倒し、切ったり削ったりして板や柱にする。道具=技術の発展とは人間の歴史そのものです。つまり人間の変化が道具に現れているのです。時代区分はそれに従っています。ただし、これまでの時代区分もあるいは修正されることが、この先あるかもしれません。道具によるか、政治体制の解釈によるか、あるいは別の要素が出てくるかわかりませんが。
7.考古学の魅力は何か
モノから昔の生活を想像することノ昔の地面を掘って遺構を検出することの喜び/道具の発展が実感できること/文字資料の残っていない世界の広大さに気づくこと、、、かな
(笑)。
一般社団法人鎌倉・中世文化研究センター
所長