十王岩 - 若宮大路の起点

鎌倉地図草紙より
天園ハイキングコースを西に向かって歩き、覚園寺方面に降りる分岐点を過ぎてしばらく行くと、左手に向かって少し戻るかたちで道がある。この道を五分ほど登った右上方に、畳二畳ほどの岩が衝立のように立っている。岩の鎌倉側には三体の像が彫られているが、風化がひどく、それらが何であるかはもはやわからない。江戸時代の地誌『鎌倉攬勝考によれば、闇魔大王・如意輪観音・地蔵菩薩の三体で、「わめき十王」と呼ばれているという。「十王の呼称は閻魔大王に由来するのだろう。横の展望台に立って鎌倉市街地を見おろすと、若宮大路は短い一本の筋にしか見えないが、それは真っ直ぐこっちに向かっており、延長線は立っている私たちのすぐ左下の足元に届くようだ。実際それは、十王岩からほんの40~50m東の山腹を貫く。そこに、はるかに遠い若宮大路の起点がある。閻魔たちは異界との境界を示す標識としてここにいるのである。
治承四年(1180)十月六日、源頼朝は鎌倉に入った。九日、鶴岡八幡宮を由比浦から当時小林郷北山と呼ばれていた現在の場所に移した。二カ月後の十二月十二日、大倉に「新亭」(大倉幕府)が完成したその日、市中の道路を直線にし、地区に名前をつけた。それは頼朝による高らかな建都の宣言だった。翌養和元年(1181)七月、現在の鶴岡八幡宮本宮の場所に社殿の造営がはじまり、八月十五日には遷宮の儀式がおこなわれた。養和二年(1181)三月十五日、八幡宮社頭から由比浦まで若宮大路が真っ直ぐ通じた。鎌倉は、中世都市としての新たな枠組みに移行したのである。
頼朝はどのような都市を実現しようとしていたのだろうか。よくいわれるように平安京や平城京のような古代都城なのだろうか。それとも、その当時の京都における町構造の基軸となっていた下賀茂神社と鴨川に、鶴岡八幡宮と若宮大路を重ね合わせたのだろうか。
おそらく前者の可能性が高い。というのも、鎌倉においても平安京と同じような都市の設計図があったと考えられるからだ。
鎌倉の造営計画をみる前に、平安京のそれをみておこう。計画の基準点にあるのが船岡山である。その山上に露頭した岩塊は正確に朱雀大路の北の延長線上にあり、大路はここを起点に子午線に沿って南下する(杉山信三『よみがえった平安京』)。船岡山の岩から一条大路までは1400m弱で、これはおそらく平安京大内裏の南北距離460丈=1380 mにひとしい。そして南北軸線は、京域西辺にある双ケ丘という丘陵の頂上と東辺の鴨川との間を等分割して設定されているという(足利健亮都城の計画について」『都城』)。
鎌倉はどうだろうか。定規と鉛筆を手に、鎌倉市の全体地図を広げてみよう。一万分の一なら、距離がわかりやすくて好都合だ。
まず、若宮大路の延長線を北に伸ばしてみる。すると今泉の山塊に突き当たるだろう。「天園ハイキングコース」の通るこの山稜の鎌倉側は、岩盤の露頭した急な崖になっている。この崖こそがおそらく、平安京船岡山の岩塊に相当する、若宮大路の起点である。
この地点と鶴岡八幡宮社頭の横大路との距離を測ってみよう。一万分の一の地図上では14cmに少し足りず、二千五百分の一では55cmをわずかに超えるはずだ。すなわち1380m前後とみてよく、まさしく平安京における船岡山山頂の岩塊と一条大路間の距離に等しい。地図上の計測値であることを割り引いても、偶然というには一致しすぎる数字だといわねばならない。一条大路が大内裏北辺で、横大路が八幡宮南辺であるという違いはある。けれども前者が京程の北端、後者が若宮大路の北端という、ともに都市の定点に当たる位置での距離が等しいという事実は無視できまい。意図的な一致と考えるほうが理にかなっていよう。鎌倉では地形的制約から距離を確保することができなかったので、やむをえず社頭の位置にしたのではないだろうか。鶴岡八幡宮に北辺のみ堀や築地のないのは、おそらくそのせいだろう。距離についてはいずれ精密な実測が待たれる。
閻魔大王の像がここに彫られた理由もよく理解できる。彼らは彼岸に住む。この地点が造営計画の記点であるなら、当然その先は鎌倉の外である。十三世紀なかばから後半にかけて、鎌倉には市域の境界にあたるいくつかの場所に、異界標識として十王像が置かれた。「十王岩」もそのひとつだったのだろう。これは「やぐら」の風化したものではない。
では、若宮大路の主軸方位はどうやって決められたのだろうか。平安京では北方の任意の一点から子午線を垂らした。しかし鎌倉は平野部が狭く、それでは南東で山に当たってしまう。当然地形に左右された方位を採用せざるをえない。そのとき、つぎのような独自の基線が存在したと推定される。
もう一度地図に目を向けよう。鎌倉市の東北部、瑞泉寺北方約500mに天台山という標高141mの山がある。その位置は鎌倉にとって鬼門に当たり、『鎌倉攬勝考』や『新編鎌倉志』(近世地誌)では、平安京にとっての比叡山(天台山)に擬せられたものという。若宮大路主軸に沿って視線を南に転じると、大町一帯では最も高い衣張山に行き当たる。標高11mのこの山は、名称の由来をめぐる伝説や、中国竜泉窯の青磁大鉢の出土でよく知られている。さて、ふたつの山の頂上に定規を当て、線で結んでみる。すると興味深い事実が浮かぶ。その線は正確に若宮大路に平行しているのである。しかも大路中心軸までの距離は、1360~1370m。先に示した、十王岩脇の大路起点と横大路との距離にほぼひとしい。この事実もまた偶然ではあるまい。というのも、先述のとおり、平安京においても京程の西端は双ケ丘という丘陵の頂上を通り、それが南北の基軸となっているからだ。測量基準として、不動の白然地形ほど好都合なものはなかろう。
以上を整理すると、つぎのような設計方法が想定できる。
まず、天台山と衣張山の頂上を結ぶ線を引く。これは動かしがたいものだから、すべての基準となる。つぎに、この基線から1360~1370m(1180mか)西に平行した線を引く。これが若宮大路で、都市の中軸線をなす。この線を北に延長すると、鎌倉を囲む山稜に突き当たる。そして、今度は逆にこの交点が起点となって、街に区画が設けられる。すなわち、平安京一条大路と同じ1380mの地点に、大内裏に比すべき聖域、鶴岡八幡宮の南辺を区画する東西の大路が設置されるのである。また、その後さまざまな局面で登場する陰陽師の意見が、このときも重用されたにちがいない。
ここに浮かび上がってくるのは、精密な測量技術を持った技師たちの存在である。彼らは図師(算師と呼ばれ、中国伝来の算術により、天体観測による方位測定、直線を延伸する技術、高低差を測る技術などに長けていた。もちろんピタゴラスの定理はとうに知っていて、直角は簡単に作り出せた。広大な都城設計技術があれば、鎌倉の測量は決して困難ではなかったはずだ。
中世都市鎌倉の造営は、このようにして始まった。このとき以来、鎌倉における子午線は若宮大路となった。子午線が北の山塊を貫いた場所に一世紀近くを経て置かれた境界標識、それが十王岩である。